『東京の色100』091~095

091 和光本館

銀座は老舗デパート、高級ブティック街の大人のイメージから、最近はAppleの最新機種の行列やファストファッション店が並び、カジュアルな街へと変貌している。そんな銀座で古くより時を刻むのが、銀座4丁目にある和光本館の時計塔だ。
の時計塔は今から85年以上も前、昭和7年に建て替えられた2代目。初代は服部時計店(現:セイコーホールディングス)の創業者である服部金太郎が、銀座4丁目角地にある朝野新聞社屋を買い取り、明治27年に完成させた。今の2代目はネオ・ルネッサンス様式で建て替えられ、時計塔の四方にある文字盤はほぼ正確に東西南北を向く。地上から時計塔まで高さは39.39メートル。外装材は建て替え工事中に関東大震災で中断した経験から、火災や地震を考慮し天然石を使用した。平成20年には改修工事を行ったが、外観はショーウィンドウ周りの改良に留め、建設当時そのままだ。
和光本館(時計塔含む)の外観は2.5YRの色相。近くで見ると白、黒、薄いピンクの多彩模様の石材だとわかる。丸みの建物に薄いピンクが重なることで、やわらかい印象を与えている。また、外観は太陽光が射すと白みを帯び、曇るとピンクが強調される。
新しい文化を取り込みながら、様変わりする銀座。それを許


容するように和光本館は堂々とありながら謙虚な趣で、銀座をずっと見つめ続ける。

 

塗料報知新聞社 森康重

マンセル値:2.5YR 7.81.2

NOCS2.5YR13.8



092 東京ソラマチのグレイッシュペイブメント

20125月に開業した「東京ソラマチ」は、皆さんよくご存知のスカイツリーの足元にあたる商業ビルの名前です。このソラマチには多くのショップやレストラン、お土産店などがそろっていて、休日には、子ども連れのファミリーで満員の盛況ぶりです。中には水族館までありますので、家族で一日中楽しむことができます。

上を見上げれば、ご存知スカイツリーが視界をふさぎます。スカイツリーの色である藍白については、No.43で解説されているように幾分青みを感じる白に近い灰色といえます


が、このソラマチも遠景では、灰色の建物に見えています。でも、ソラマチに足を踏み入れてみると、建物周囲のペイブメント(舗装)が微妙に色分けされていることに気づくでしょう。

主要な歩道は、濃淡3色の灰色のペイブメントによってストライプ状に構成されています。この3色を測色すると、3色とも黄味の色相である2.5Yに統一されていることがわかります。

現在の建物や道路では、時折、主張の強い彩色が見られる事があります。基本的に、環境となる都市景観の色彩は、お店や歩行者、サインなどの彩りを引き立たせるような、地になる存在であって欲しいもの。とはいっても、ともすれば灰色主体の単調な印象に陥りやすいのも事実です。

東京ソラマチのグレイッシュペイブメントは、都市景観の背景としての要件を満たしながらも、しっかりした個性を発揮しています。

 

日本ファッション協会 山内 誠

マンセル値:2.5Y 5.50.5

       2.5Y 6.51

       2.5Y 7.51

NOCS2.5Y14.8

      2.5Y16.8

      2.5Y0.59



093 慶應の色

慶應の色を初めて意識したのは、親友から入学祝いの花束を贈られた時だ。大学から慶應義塾に入塾した私は、親友に「慶應のスクールカラーだから」と赤青黄色のガーベラをもらった。実際のスクールカラーは明度が抑えられており、慶應という名に相応しい気品が伺い知れる。

慶應義塾大学が掲げている塾旗は3色旗と呼ばれているが、実際のところ2色のストライプにペン章があしらわれているものだ。ストライプのブルーとレッド、ペン章のイエローをもって慶應のブランドカラーとしている。意外かもしれないがこのスクールカラーは、長い慶應の歴史の中で徐々に形成されて出来上がった。元塾長鎌田栄吉の話によれば、明治30年前後、運動会で使っていた紅白旗の白を倹約のため汚れが目立ちにくい浅葱色に変更したのが始まりだという。そこから長年の間変化を重ね、昭和39年に塾旗として用いるため「塾旗の基準について」によって寸法、色彩、ペンの形、三色の割合とペンの位置が制定された。また、平成7年にVIガイドラインを定められ現在の慶應カラーが商標登録されることとなった。


慶應のブランドカラーは慶應のキャンパスによくみられるレンガ造りの建物とも、モダニズム建築ともマッチしている。その格調高い色が学生生活に深く馴染んでいるのは、塾生たちが日々の生活を通して互いを研鑽してきた文化と歴史がこめられているからだろう。

 

慶應義塾大学大学院 加藤友里

マンセル値

 ①RED 8R 4.513.5

 ②BLUE 6PB1.510.5

NOCS

 ①8R8.24.2

 ②6.5PB8.28.4



094 築地本願寺石造りのベージュ

築地に伽藍(がらん) = 浄土真宗本願寺派の直轄寺院。現在の石造りの本堂は1934(昭和9)年に古代インド仏教様式を外観として建てられた。

歴史を遡ること1617年、創建発祥は日本橋から1657年の明暦の大火により坊舎が焼失。替地として海の上に土地を築いた築地に再建され(1679年)、場外市場まで寺内町だったが1923(大正12)年の関東大震災で本堂を焼失してしまう。

現在の本堂は、当時の仏教建築ではめずらしく、鉄筋コンクリート造に花崗岩などで外観を覆い、蓮の花が描かれた正面上部は、菩提樹の葉をモチーフにしたデザインが仏教発祥の地をイメージさせ、石塀・三門門柱(正門・北門・南門)の大谷石と合わせて、統一された石の自然色の風合いで円筒の屋根、左右の鐘楼と鼓楼の銅板の緑青色、それに大きな観音扉などのターコイズが映える。

設計は、幾多の重要文化財・登録文化財となる建物を手掛けた伊藤忠太氏(1867-1954)。築地本願寺も2014(平成26)年、国の重要文化財に指定されている。

現代の建築群や歴史を感じる建物が建ち並ぶ中でも、巨大で


特異な建物でありながら、石の持つ重たさとは別に、白色系の統一感ある外観が壮大さと調和を醸し出し、内観も合わせれば、日本、インド、中国、ギリシャなどの宗教観と設計者(建築史家)の相俟った雰囲気を感じ取れるはずだ。

 

CBN越谷支部長/()田崎建装 田崎健太

マンセル値:10YR 6.51.8

        10BG 63.5

NOCS10YR―1.7―6.6

      10BG4.53.8



095 江戸切子の瑠璃色と銅赤色

江戸切子は、1834年(天保5年)に江戸大伝馬町のビードロ屋、加賀屋久兵衛(通称:加賀久)が金剛砂を用いてガラスの表面に彫刻で模様を施したのが始まりと言われる。つまり、最初の江戸切子は透明のカットグラスだったようだ。
江戸切子の技術が発達したのは、明治になってから。1873年(明治6年)、明治政府の殖産興業政策の一環として品川興業社硝子製造所が開設され、1881年(明治14年)にはイギリスから御雇い外国人としてカットグラス技師・エマヌエ


ル・ホープトマンを招聘し、技術導入が行われた。
現在の江戸切子は、明治に西欧の技術を導入して生れたと言ってもいいだろう。江戸切子の青や赤は、どこか垢抜けていて、西欧の匂いを感じるのは私だけだろうか。
ところで、75日は「江戸切子の日」である。文明開化に思いを馳せ、江戸切子で冷酒で一献、というのはいかがだろうか。

 

()シナジープランニング 坂口昌章

(イメージ) 
マンセル値:7PB 3.513
        5R
 414
●NOCS
7PB9.22
      5R
8.24.4