東京には銅板葺きの建物が多く残されている。神田明神やニコライ堂、そして最近改装された東京駅の屋根にも銅板が使われている。また下町では壁に銅板を葺いて、緑青色になった小さな商店もよく見掛ける。ちょっとレトロな感じがするこの緑青色も東京らしい景色をつくっている。
墨田区の横綱町公園にある東京都慰霊堂は、1930年に創建された。関東大震災の死者を慰霊するためにたてられた本堂は伊東忠太の設計で寺院風の建築となっている。この歴史的な建築物も老朽化のため、現在、耐震壁の増設や窓枠周囲などの補強、そして屋根の銅板葺き替えなどの改修工事が行われている。永い間、雨風に打たれ、真夏の強い日差しに曝されて変化した銅板の色は、2.5BG 6/4程度の美しい緑青色に変化していた。銅板は、最初は赤銅色で数ヶ月経つと光を失い、明度・彩度を落とす。そして永い年月を掛けて緑青色へと変わる。今回の慰霊堂の屋根工事では、このきれいな緑青に変化するまでの間、緑青色に近い塗装材を適度な斑で吹付
完成した慰霊堂
け、改修当初から永く愛されて来た景色を壊さないように配慮されている。平成28年春には耐震補強され、緑青色の銅板屋根が葺かれた慰霊堂がまた見られる予定である。
色彩計画家/クリマ代表 吉田愼悟
●マンセル値:2.5BG 6/4
●NOCS:2.5BG-4.9-3.8
中学、高校時代は早稲田弦巻町に通っていた。早稲田大学界隈は学生向けの安くて美味しい食堂や雀荘や卓球場等が沢山あったように記憶している。それらの店舗が春の入学の時期や、秋の早稲田祭の時に早稲田カラーの旗を掲げてくれる。僕はブラスバンド部だったので、早慶戦の応援に駆り出され、慶応に勝って優勝すると大隈講堂あたりまでパレードにも付合わされた。明治神宮では多くの学生が参加して、何回も校歌や応援歌を歌いながら、早稲田のまちに向かって練り歩く。しかしこの賑やかな行進も、新宿辺りで多くの学生が何処かの酒場に流れて行って人数が減り、早稲田に辿り着く
頃には応援団とブラスバンドとまじめそうな学生達の淋しい行進となる。このようなやせ細ったパレードを早稲田のまちは臙脂色の旗を掲げて迎えてくれた。店舗に掲げられた臙脂色の旗を見ると我がまちに帰って来たようで誇らしかったことを覚えている。
この臙脂色の早稲田カラーは、1905年に早稲田大学野球部が、日本初の海外遠征(米国)を行った際に新調されたユニフォームが、薄い小豆色の地にえび茶色で「WASEDA」と書かれたものであったという。このあたりから早稲田とえび茶色の結びつきが始まったようだ。
色彩計画家/クリマ代表 吉田愼悟
※JIS慣用色名「臙脂色」
●マンセル値:4R 4/11
●NOCS:4R-6.9-6
毎年春の連休前後になると、港区南青山・根津美術館の庭園の燕子花(かきつばた)が満開になる。
そして、毎年同時期に、美術館の中では、国宝「燕子花図屏風」(尾形光琳筆、1658~1716)が展示される。
総金地の六曲一双の屏風に、濃淡の群青と緑青によって描きだされた燕子花。
この燕子花は、まるで近くで花を見ているような臨場感と存在感があり、それは写実的というわけではなくて、茎がないなど多分にデフォルメされ、拡大され、花の美しさがシンプルに抽出されている。
この作品は、後に光琳の琳の字をとって「琳派」と呼ばれるようになる、江戸時代を代表する絵師尾形光琳の代表作である。
この根津美術館のコレクションは、日本・東洋の古美術や茶の湯の道具を中心に7000点を超え、その中には、私の先祖である初代小島漆壺斎のものも数点ある。
ここに来る度に墓参りに来たような気分になり、そして茶道具の名品に、先達に戒められている気分にもなる。一つ一つが選び抜かれた秀逸なコレクションなのである。
また、美術館の建物は、2009年に改築され、エントランスま
十二代目の作品:紫漆重箱
での竹と玉砂利のアプローチが、伝統を踏まえたモダンで印象的である。
ぜひ春の連休は、都会の真ん中で都会の喧騒を離れ、2つの燕子花を見に立ち寄ってみられてはどうかと思う。
松江藩御抱え塗師・蒔絵師十二代目 小島ゆり
●マンセル値:9PB 3.5/13
●NOCS:9PB-8.9-2.6
参考:JIS杜若色
●マンセル値:7PB 4/109PB
●NOCS:7PB-7.8-3.4
東京の色というより、日本を象徴する色としてジャパンブルーがあげられる。これは、明治になって多くの外国人が日本にやって来るようになり、多くの日本人が着用している藍染木綿の美しい色に驚き、名付けたものだ。その藍染の中でも、最も濃く深く染めた色が「かち色」である。
褐色(かちいろ)の起源は、その昔、褐布(かつふ)という色の黒い毛織物が日本に伝わり、黒い色をかち色、かつ色と呼ぶようになったという。
褐色を「かっしょく」と読むと「黒ずんだ茶色」だが、「かちいろ」と読むと「黒に見えるほど濃い藍色」を意味する。
かち色、搗色とも書く。「搗つ(かつ)」とは、「臼に入れてつく」という意味で、濃い藍色に染めるため、染めた糸を臼に入れてつき、染めてはつくという作業を何度も繰り返し、黒く見えるほど濃く染めたという。
藍染は色をつける作業だけではない。藍の効能を糸や布にたたき込むという作業でもある。だからこそ、触っただけで指が染まるほど濃く染める。色をつけるだけなら、それほどの濃度は必要ない。
次第に藍の効能が忘れられ、藍の色だけが意味を持つようになった。そのため、染色効率の良いインディゴ(インド藍)
が広がり、やがて、合成インディゴに変わっていった。
かちは、勝ちにも通じることから、縁起をかついで、武具の色や祝賀の色に使われた。明治の日露戦争の時にも、かち色が勝色、軍勝(ぐんかつ)色などとして流行した。
身体に良い藍の効能が、「戦争に勝つ」という縁起に転じた。ちょっと、カチンと来る話でもある。
有限会社シナジープランニング 坂口昌章
JIS慣用色名:かち(勝)色
●マンセル値:7PB 2.5/3
●NOCS:7PB-3-13.2
女子中高生の夏の制服に多く見られるセーラー服は、コスプレ文化と共に"Sailor fuku" として世界に広まっている。
セーラー服の原型は、海軍の軍服である。軍服が直接日本に伝わって制服になったのではなく、イギリスのヴィクトリア女王がそのデザインを気に入り、子供達に着せたことから、イギリスの子供服のデザインとして流行し、それが20世紀初頭に世界中に広まったという。
日本で最初にセーラー服を着用したのは、1920年京都府の平
安女学院とされている。但し、この時の制服はワンピースであり、現在のような上下セパレートの制服は、福岡県の福岡女学院が最初らしい。
男子学生の制服が陸軍の軍服が起源であるのに対し、女子学生の制服は海軍ということになった。
そもそも、海外では学生も社会人も服装は自由であり、制服の着用は少ない。集団が同じ服装をするのは、軍隊に象徴されるように、個を殺して集団を優先する場合に限られる。
しかし、日本の女子中高生のセーラー服は、そんな負のイメージを感じさせない。むしろ、大人社会を拒絶した独立した存在であり、その限定された時間を楽しんでいるかのようだ。そのイメージが、世界中のオタクに支持されているのだろう。
白とネイビーのセーラー服。黒髪と肌色、白か紺のソックスという組み合わせは、純潔で清楚なイメージだが、場合によっては、そのイメージが逆転し、見る者の妄想を膨らませる。そんな妄想を許容するのも、オタク文化であり、外国人が憧れるタブーなき日本の感性なのだ。
有限会社シナジープランニング 坂口昌章
JIS慣用色名:ネイビーブルー
●マンセル値:6PB 2.5/4
●NOCS:6PB-4.1-12.4