『東京の色100』031~035

031 小松菜の緑色

東京近郊で栽培される野菜の代表格は小松菜だろう。江戸川区の農家から両手で抱えるほどの小松菜を頂いたことがある。鍋の仕上げの雑炊やうどんに大量に散らして、しゃきしゃき感の残るうちにいただく小松菜は最高だ。東京で取り立てを味わえる数少ない野菜のひとつで、耐寒性が強く旬は冬だが、周年栽培されて食卓を彩っている。濃い葉と明るい茎の対比が、茎のみずみずしさを強調し、日に透かして見ると艶っぽさと生命力を感じさせる。

小松菜の名前は、武蔵国葛飾郡小松川村(現在の江戸川区小松川付近)に由来するようだ。江戸時代の将軍吉宗が鷹狩りに訪れた際に献上され、そのおいしさに感激した将軍はその土地の名前から小松菜と名付けたということだ。現在、東京では江戸川区以外に、葛飾区・足立区・八王子市・武蔵村山市・町田市・府中市・立川市などで栽培されている。

以前、江戸川区の物産展示で小松菜染めのスカーフを見つけた。小松菜の茎の色に似たとてもさわやかな染だったので、作者に連絡を取り展示会に出かけて行った。茎で染めた絹は瑞々しい小松菜の表情を残すものから褐色に近いものまで多彩であった。このような形で抽出した色を眺めていると、ま

 

小松菜染め

 

草薙 惠子

(江戸川区伝統工芸会会員)

 


すます小松菜に愛着が湧いてくる。

 

一般財団法人日本色彩研究所 赤木重文

[茎]

マンセル値:5GY 7.5/5.5

NOCS5GY-5.6-1.6

[葉]

マンセル値:.5GY 4.5/4.5

NOCS7.5GY-4.9-9.2



032 東京武道館疑宝珠の金色

日本武道館の疑宝珠と聞いてもわからないかもしれない。日本武道館の玉葱と聞けばわかるだろうか。

日本武道館は1964年の東京オリンピックでの柔道会場として建設され、法隆寺夢殿をモデルとした八角形の形と、富士山の曲線をイメージした緩やかな勾配を持った屋根に特徴がある。擬宝珠とはその屋根の頂上にある、玉葱の愛称で親しまれる、アレである。

日本武道館は日本有数の有名建造物であり、1964年東京オリ


ンピック以降、スポーツ大会に使用されるのは勿論、コンサート会場、大学等の式典にも使用されてきた。とりわけコンサート会場としては、さらに大規模なドームコンサートが開催される今日でも、国内有数の会場であり続けている。その日本武道館と言って多くの人が最初に思い出すのが、美しい屋根の稜線と金色の疑宝珠である。

武道館の疑宝珠は金メッキ仕上げがされており、その巨大さは遠目に見ても堂々として威厳があり、緑青の屋根と見事な調和を見せている。

変わりゆく緑青と不変の金色。

あらためて眺めると素晴らしい対比である。

金色はメタリックカラーのため、三属性だけではその色を表現することが出来ない。人が対象物に金属感を感じるのは、その表面状態が見る角度によって光の反射率が著しく変化していく様子を、色と共に視覚情報として捉えているためである。但し本稿では日本武道館の疑宝珠を色の視点に基づいて視感測色を行った。

 

株式会社中川ケミカル 森 佑人

視感測色法

マンセル値:6.25Y 7/5.5

NOCS6.25Y55



033 「神田まつや」の木壁

神田須田町にある老舗の蕎麦屋「神田まつや」は、味ばかりでなくその古風な木造の外観を好む人も多い。

周辺に近代的な大きな建物が増えたせいか、明治17年創業という店舗の外観は以前よりもさらに風格を増したように感じる。

この「神田まつや」の手入れの行き届いた外壁の色は、木造なので多少の色斑があるが、マンセル色票で色を合わせると7.5YR 2.5/1という値であった。暖かみのある7.5YRという色相の色だが、彩度は1なのでほとんど色味を感じさせず、2.5という明度はほとんど黒といってもよい明るさである。「神田まつや」の外壁はこのほとんど黒に近い焦茶色と、松の形をぬいた白い漆喰壁が程よく調和している。

東京には竣工時はきれいだが、後は汚れていく新建材を使っ


たビルが増えている。手入れをすることによって風格を増し、時間の経過と共により美しくなっていく建材がもっと開発されてもよいのではないかと思う。

神田須田町の「神田まつや」の周りも戦前には、黒い落ち着いた風格がある民家が並んでいたのだろう。その景色は人が何代も掛けて育てた景色である。まつやの落ち着いた雰囲気の中で蕎麦をすすりながら、昔の味わいがある神田の景色に思いを馳せた。

 

色彩計画家/クリマ代表 吉田愼悟

マンセル値:7.5YR 2.51

NOCS7.5YR114.8



034 柳橋の緑

柳橋は神田川と隅田川の合流点付近に架かっている。この辺りは古風な佃煮屋さんや美味しい和菓子のお店もあり、ゆったりとした情緒に包まれている。

柳橋は元禄11年(1698年)に初めて架けられ、明治28年(1895年)には鋼鉄橋に架け替えられている。しかしその橋は関東大震災で落ちてしまい、昭和4年(1929年)に永代橋のデザインを取り入れ架橋されている。

柳橋の名前の由来は諸説あるらしいが、橋のたもとに柳があったという説が有力そうだ。この付近には今でも釣り船が繋がれているが、江戸時代には多くの船宿が並び賑わってい


たようだ。幕末・明治以降はこの辺りは花柳界として多くの人を集めたようで、今でも黒塀の料亭が見られ、三味線の音が流れてくることもある。

柳橋の色は落ち着いた深緑色で、江戸や明治の雰囲気が残るこの界隈にうまくとけ込んでいる。

 

色彩計画家/クリマ代表 吉田愼悟

マンセル値:2.5G 5/4

●NOCS2.5G4.57.6



035 白いレインボーブリッジ

東京港連絡橋、通称レインボーブリッジは1993年に開通している。

その前後、私はURシーリアお台場三番街やトミンタワー台場三番街・都民ハイム台場三番街等の色彩計画の仕事でよく臨海副都心の建設現場に行った。仕事が始まった当初はレインボーブリッジもゆりかもめも開通していなかったので、まだ建築物も少なく、ちょっとのどかな雰囲気がある臨海副都心現場に船で通った。


海を渡る巨大な白い橋梁の見え方は、レインボーブッリジよりも先に完成した横浜ベイブリッジのおかげでおおよその見当がついていたが、レインボーブリッジはより大きく印象的であった。

 新橋からゆりかもめに乗ると、汐留の超高層建築群を見て、芝浦あたりで大きく弧を描いて螺旋状に昇っていく。空に向かって上昇していく時に見える、広がりがある青い空と足元に拡がる海、そして東京湾岸の高層建築群がつくり出す景観は格別だ。巨大な白いレインボーブリッジは多くの都民に親しまれ、東京港のランドマークとなった。

 

色彩計画家 吉田愼悟

マンセル値:N9

NOCSN9