『東京の色100』086~090

086 カレーパン

パン屋さんに入ると、必ずと言っていいほど人気上位に入っているのがカレーパンである。それだけ多くの人に親しまれているカレーパンであるが、日本で生まれた食べ物だと知る人は、どれほどいるだろうか。

カレーパンの誕生は、1927年(昭和2年)にさかのぼる。「カトレア(当時の「名花堂」)」の中田豊治氏が、労働者の多い江東区の深川で喜ばれるようにと、当時流行っていた3大洋食(カレー、トンカツ、コロッケ)の一つであるカレーをパンで包み、とんかつのように揚げたのがはじまりだという。その後カレーパンは日本全国に広まり、今では日本カレーパン協会という団体まで存在する。

カレーパンへの人気が後押しをしているのか、最近は更なる美味しさを求めてカレーパンの多様化が進んでいる。少し調べるだけでも焼いたもの、棒状もの、米粉を使用したものと多種多様である。もちろん具材にもこだわりがあり、最近はゆで卵が入っているカレーパンが目立つほか、新宿中村屋のカレーパン(美味しい高級カレーパンの先駆け)は、本格インド式のカリーのレシピを元にしながらも、パンとのバランスを考えてスパイスを調整し、酸味を少なめにしているというこだわりようである。

興味深いのは、カレーパンの形や具材が多様化しても、どれも揚げるなどしているため、生地の色に大きな違いはないという点だ。

カトレア(上)と新宿中村屋(下)のカレーパン


カレーパンの生地の色を示すと、先述したカトレアでは5.0YR5.0/8.0、新宿中村屋で7.5YR5.0/8.0、ボンジュール・ボン(カレーパングランプリ2018金賞受賞)では7.5YR7.0/8.0と、どれも類似していた。

カレーパンが多様化しても、この生地の色がカレーパンのアイデンティティを担っているのかもしれない。

東京で生まれ、全国、そして世界へと広まりつつあるカレーパンが、これからどのように変化し、またどのように「らしさ」を残すのか、目が離せない。

 

カラープランニングセンター池田麻美

マンセル値:5.0YR 5.08.0

NOCS5YR6.17.4



087 長命寺の桜餅

桜餅というと、桜と白、みなさんはどちらの色を思い浮かべるのでしょう。長命寺の桜餅は白。マンセルで言うと、5Y8/2。享保2年から受け継がれている老舗の味は、その色も昔と同じく白。昔は着色するものがなかったからとお店の人。その、もっちりとしっかりした食感の皮が、同じくY系の塩漬けの桜の葉23枚に包まっています。何とも目に柔らかい色の組み合わせと、芳しい桜の香り。

 

葉隠れに小さし夏の桜餅


と詠んだのは、店の二階を月光楼と称して、一夏を過ごしたことのある正岡子規。普通、桜餅は春のもので、5月に柏餅が出てくると味わえなくなってしまいます。ところがここ、長命寺の桜餅(山本や)では、一年中味わえる

夏に桜の葉が青々としていることを考えれば、桜餅が夏に合わないわけもなく、皮の黄みを帯びた白と葉の組み合わせが返って涼しげです。秋冬にしても今は見られない桜の名残を桜餅に見るのも乙なもの。もしも皮の色が桜色だと、やっぱり春に食べないと野暮な気がしてしまうから、色とは不思議なものです。みなさんも、春夏秋冬、長命寺の桜餅、味わってみてはいかがでしょう。

 

大沢光太郎建築塗装㈱ 大澤裕美

マンセル値:5Y 82

NOCS5Y23.4



088 新宿中村屋のカレー

カレーソースの色は、スパイスからなる混色である。

そう考えると、20種類ものスパイスで作られる、中村屋の純印度式カリーのソースの色は、その本格さの証明だとも言えるだろう。

(中村屋のカレーは、一般的なカレーと区別して、カリーとしている。)

マンセル値にすると7.5YR4.0/8.0である、このカリーソースの秘密を探ると、「恋と革命の味」というフレーズにたどり着く。

ここで言う「恋」とは、インドのカリーを日本に伝えたインド独立運動の志士ラス・ビハリ・ボースと、新宿中村屋の創業者の娘である相馬俊子との恋である。

大正4年(1915年)、ボースはインドから日本に亡命するが、日英同盟を結んでいた日本政府から国外退去を命じられる。そこで創業者である相馬夫妻の配慮により、中村屋のアトリエで匿われるようになる。3ヶ月の滞在の後、再び逃亡生活を始めたボースと、相馬家の連絡役を務めたのが、娘の俊子であった。

やがて二人は結婚し、ボースは大正8年(1919年)のパリ講和会議で晴れて自由の身となる。しかし俊子はその6年後、


逃亡生活の心労がたたり他界してしまう。

その頃、新宿に百貨店が進出するようになり、中村屋は買い物をしたお客様が一休みできる場所を検討することになる。そこで喫茶部の名物としてボースが提案したのが、祖国印度の味を伝える純印度式のカレーであった。

当時日本で一般的だったのは、小麦粉を使った欧風のカレーだが、ボースが伝えたインドのカリーはスパイスの強烈な匂いが漂い、当時日本では珍しい骨つきの鶏肉がゴロッと入ったものだった。ボースは祖国のスパイスをとても大切に保管し、お店で使う分量だけしか持ち出さなかったという。

なお、中村屋では初めて印度カリーを発売した612日を「恋と革命のインドカリーの日」と制定している。

一皿のカリーの裏にある「恋」と「革命」は、他では真似できないスパイスの隠し味となっているのだろう。

 

(株)カラープランニングセンター 池田麻美

マンセル値:7.5YR 4.08.0

NOCS7.5YR6.310.4



089 原色の広告群

東京の繁華街は猥雑である。見渡す限り赤、黄、青、緑、ピンク、紫などの鮮やかな色の広告看板、ポスター、スクリーンや標識がひしめき合い、私達に強烈なインパクトを与える。

この広告群が織りなす喧喧たる景観は、一見無秩序で混沌としているが、不思議なことにそれが一種のエネルギーとなり、熱気を帯びた不思議な魅力を醸し出す。

ふんだんな色と形、光が交差する雑多な街並みは並外れたヴァイタリティに溢れ、世界中から訪れる多くの人達を熱烈に歓迎するかのようである。

東京は多様な人種が集まる街である。異なる個性と特色を持つ人々で賑わう街の姿は、繁華街に溢れる色の洪水と比例している。

原色ラッシュの街並みは街の活気そのものであり、それが人々の目にはアトラクティブに映る。まさに「東京スタイ


ル」と言えるだろう。

強烈で煌びやかな色の群れは、訪れる人の感情を掻き立て欲望を喚起する、ある種の刺激剤である。エキサイティングな色達が心を弾ませ、理性を麻痺させ、衝動を引き起こし、大きな経済効果を生むのである。

世界的にも人気の高い国際都市「TOKYO」の原動力は、カラフルな広告群が支えているのだ。

 

カラーコンサルタント/一般社団法人日本ユニバーサルカラー協会 代表理事 南 涼子

マンセル値:彩度1014

 (参考値)

NOCSSaturation 79



090 ネオン街の色

華やかなイメージを持つ大都会東京。眠らない街と言われ、見上げれば高層ビル群がそびえ立つ。歓楽街を見渡せばゲームの世界に飛び込んだかのような、ギラギラとした光が煌めいている。

そんな近代的な街の片隅を、ひっそりと隙間を埋めるように小さな建物が肩を寄せひしめき合うディープな場所がある。そう、路地裏のネオン街である。

新宿の「ゴールデン街」に代表される、裏通りの一角などはまさにその代表だ。東京の所々にある飲み屋の連なるノスタルジー漂う横町もまた、昔ながらの東京のれっきとしたネオン街なのだ。

ネオン管は1910年、パリの政府庁舎で公表され、大正時代に日本へと辿り着いた。昭和2年には国産のネオンランプが開発され、戦後になって急速に普及した。


ジージーと音を立てるその光は、華やかできらびやかな色合いをしており、その斬新な輝きにかつての日本人が心奪われたのは言うまでもない。

ネオンの明かりは仕事帰りのサラリーマンや職人をはじめ、日々懸命に生きる人々を引き寄せる誘引力がある。酒を酌み交わす人達の疲れを癒やし、明日への英気を養う魔法のような光である。

今は、もう昔のネオン管を見ることは少なくなった。時代は変わり、LEDの時代と変わったのである。そしてネオン管は名だけが残った。

しかし昭和を経て平成が終わりを告げる今でも、あの光が盛り場の現役だった時代を過ごした人々は、心に残るネオン街の色を忘れることはないだろう。

 

一般社団法人日本ユニバーサルカラー協会理事 飯村正尚

マンセル値:彩度1214

 (参考値)

NOCSSaturation 89